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朋あり遠方より来るまた楽しからずや

8/10付の「鹿児島の隠れ家Cafe」の続きです。

"TAO Cafe"から鹿児島市内に戻ってーーーー

’偲ぶ会’会場のホテル(昔私達が住んでいた大学官舎があったところ
の近くにあるホテル)までN君のタクシーで送ってもらいました。

官舎や大学医学部(当時は木造でした)があったところは島津家久が
築城した「鶴丸城」というお城跡なのですが今は黎明館という歴史資
料センタ―になっています。

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  ↑
このお濠、昔はこんなに蓮の群生はなかったような気がするのですが。

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  ↑
城壁の向こう側に大学があった。

私達の遊び場だった七高グラウンド跡は県立図書館が建っていました。

グラウンド回りは春になるとクローバーでうめつくされ、シロツメク
サで冠や首飾りを作ったことを思い出します。

秋にはたくさんの赤とんぼが飛んで茜色の空を背景にそれはそれは美
しかったことも。
あの赤とんぼは今でも飛んでくるのでしょうか。

弟と妹が通った錦城幼稚園は移転したそうで、そのあとは葬祭場にな
っていました。

様子がガラリと変わっていても不思議なもので、道路の起伏だけでも
自分が当時のどこを歩いているかわかるのですね。

「ここは、セイカ(雑貨屋さん。セイカのアイスを売っていたので私
達は”セイカ”と呼んでいた)があった場所」

「ここらへんが文理学部の官舎があったところ」

「ここに動物管理センターがあって、ここがテニスコートだったね」

「ここが医学部の官舎が3つ並んで建っていた場所」

と、次々に当時の風景がよみがえりました。

6畳の部屋3つに台所という官舎は赤い屋根の小さな小さな家で、お
風呂はまきでたいていましたっけ。
毎回灰をかき出すのは子ども達の役目でした。


父は鹿大には8年たらずしかいなかったのにもかかわらず、九州大学
に戻ってからも40年以上その当時の先生方とは交流がずっと続いて、
名前の一文字をとって「遠友会」と名付けられた会は定期的に鹿児島
で開かれて両親は招待されていたようです。
(この会の名前は、「友(朋)あり遠方より来るまた楽しからずや」
という論語の言葉にもよっているらしい)

父亡き後も母のことまでこのようにお心遣いいただくなんて、鹿児島
の先生方の人情の篤さと優しさが本当にありがたく、心があたたか~
くなってきます。

DSC00551_convert_20110809171731.jpg


父が鹿大に病理学教室が出来て初めての教授として赴任したのは36歳
(母は30歳)の時だったそうですから、随分と若い教授だったのだな
あと思います。

妹はその1年後に生まれているのですが、「教授になった方に赤ちゃ
んが生まれられたというのは前例がなく、大学としてお祝いはハテ、
どうしたものか」と教授会で議題になったという話です。

妹は6歳まで鹿児島にいたことになりますが、赤ちゃんのときしか知
らない先生方もなかにはおられ、いまや3人の男の子のどっしりとし
た?!たくましい母親となった妹を見て「まあ立派に育って・・・」
と感慨深げでした。
(決して「こんな立派なオバサンになっちゃって・・・」とは言われ
ませんでしたヨ、ハイ)

父が若かったので、教室の先生方とも年齢がそう離れておらず、最長
老のK先生は78歳で最近亡くなられたということでした。

一緒に遊んでくれていた紅顔の美青年?!だったM先生もS先生も、
もう退官され名誉教授となられたそうです。

「最初にまかされた教室ということで、あの時はとにかく貧乏だった
けど、若さと気負いと夢だけはいっぱいあった」

と母が言うように、父は研究に関しては決して妥協を許さず、

「標本を切り出して写真を撮るのを30回やり直しをさせられて、30
回目にやっと”これならなんとか学会に出してもいいだろう”とお許し
をもらったことがありました」

と話された先生もいらして、

「まあー、それはそれはさぞ腹がたったでしょう」

と母が今さらながらに?!あやまったりしていました。

父に捧げる歌として「遠友会のうた」を作詞作曲して披露してくださ
ったK先生は、今でも父の名前が出ると握りこぶしになって汗かいて
緊張してしまうそうです。

どんだけこわかったんだか・・・。(-"-;)...

かく言う私も、愛想がなくあまり笑わないヘンクツ( ̄ー ̄)な子ども
だったようで、皆さんから

「まじめだったよね」

「いつも黙って本を読んでいたね」

などと言われましたが、騒ぐと父にすぐ「うるさい!!」と怒られる
わけですから抑圧されて?自然とそういう状態になったのではないか
と自己分析しています。

担任の先生から「笑わないお子さんですね、ご家庭に何か問題がある
のではないですか?」
と言われたこともあると母が言っていました。

・・・現在のヘラヘラぶり ヘ(= ̄∇ ̄)ノ♪からは想像もつきません。



すぐ近くに住んでいた、病理標本を作る研究補助員をされていたカツ
エねえちゃん(と私達は呼んでいた)がベビーシッターとして妹の面
倒をよくみてくださり「育ての母」と言われていましたが、当時20
代だったカツエねえちゃんもいまや65歳です。

カツエねえちゃんには私もよく家庭科の宿題を手伝ってもらいました。
(ネルの生地でパジャマを縫ってもらった記憶があります)

「食べたあとの片付けは、洗い桶を洗って伏せシンクを拭きあげると
ころまでが洗い物である」ということも、カツエねえちゃんのやるこ
とを見て覚えました。


父が倒れてもう回復は見込めないとわかった時点で、「最期のときは
誰とも会わない」と日頃から言っていた父の言葉を守り、ごく近しい
親戚を除いてはいっさいのお見舞いを失礼を承知でお断りしていた母
でしたが、カツエねえちゃんが来られた時だけは「家族のようなもの
だから」とほとんどしゃべれなくなっていた父の病室に入っていただ
きました。

父もとても穏やかな顔になり、手や足をさすってもらっていました。

名残惜しく帰られるときに、カツエねえちゃんが大きな声で

「先生、また来ますねー」

と、鹿児島弁のアクセントで父に声をかけると、思いがけずはっきり
とした声で父は

「もう、来んでええが」

と鹿児島弁で?答えたのです。

数年前に乳ガンの手術をされてあまり体調も良くなかったカツエねえ
ちゃんの体の方をそのとき父は気遣っていたのかもしれません。

「先生に、”もう来んでええが”と言われましたねえ」と
その話になると、私達は皆泣き笑いになります。


翌日は母のお友達や妹の同級生に会い、午後から一緒に仙巌園に行く
予定だったのですが、母も妹もお友達とのおしゃべりがつきず、帰り
の新幹線の時刻ぎりぎりまでそれぞれおしゃべりを続けることに。

私は、小学校の同級生のW氏に白熊とぢゃんぼ餅を食べに連れていっ
てもらい、念願かなって満足満足♪でした。

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  ↑
上から見るとクマの顔に見えますか?


母のお友達のおばちゃま方は皆お元気でお綺麗でおもしろくて、なか
でも、ご主人がラサールの先生だったやはり未亡人のNさんは鮮やか
なブルーの花模様のワンピースを着こなされとても80歳には見えま
せん。

「80になったら、もう子どもにもどって、好きなように生きるの。
我慢なんかしなくていいからねっ、ワハハッ」と笑われ、母もずいぶ
ん元気をもらったようです。

鹿児島(に限らずかもしれませんが)は「長男は特別待遇、舅姑には
絶対服従」という土地柄だったそうで、おばちゃまたちもいろいろご
苦労をなさったようです。

ご主人が長男しかもご両親と同居なさっていたという方の

「昼寝をするときは押し入れで寝てた」

というお話を聞いた時には、始終ソファでごろごろ寝てばかりいる私は

「どひゃ~、私、ぜっったいムリ!!」w( ̄Д ̄;)w!!

と、ひっくりかえりそうになりました。

「メニエールで起き上がれず寝込んでいるとき、主人と義母が”ごはん
はいらないから”と言って来たんだけど、”大丈夫?”と心配されるわけ
でもなく、誰も私にごはんを持って来てくれる人はいなかった」

というおばちゃまもいらして、

「何それ~!まさに”おしん”の世界ですねっ!」

と妹といたく憤慨してしまいました。

でも、父も若いころは母に対してもたいそう厳しくて、

「子どもは泣かすな」

「口で言われなくても目の色で動け」

「出かけるぞといったら5分以内には玄関に立っていろ」

「食事を待たせるな」

などと無理難題を言っていたそうですから、昔の男の人って皆そうい
う感じだったのでしょうか? 


教室の方々をお呼びして庭でビール箱並べてお食事を出すこともよく
あり、母は20~30人分のお客様の料理を全部手作りでおもてなしを
して、お開きはいつも夜中。
その宴のあとの山のような後片付けをするのを父は何一つ手伝ったこ
ともねぎらいの言葉をかけたこともなかったそうです。

ちょっとアタマにきた母が、

「あなた、なにか私に言うことはありませんか?」とわざと聞くと、

「ありがとう」と言うかと思いきやさにあらず、

「大儀であった」とひとこと言って、さっさと寝たそうです。

(私、そんなこと言われたら、「ふざけるなあ~っ!」と卓袱台ひっ
くり返しそうです?!)

「でもお父さんは、自分にも厳しかったし責任感も強くてそれだけの
こともちゃんとやっていたからねえ」ーーとどこまでも父をたてる母。
うーん、妻の鑑であります?!

晩年、脊柱管狭窄症でひとつひとつの動作がのろくなった父は、外出
時、玄関で待つ母から「まだですかっ!」と逆に急かされる立場にな
りましたが、母は昔のかたきをとった?!と溜飲を下げると同時にさ
びしくもあったのではないかなあ・・などと思ったりもしました。

たった2日間の鹿児島滞在でしたが、総勢約30名の懐かしい方々に
お目にかかることができました。

これまでの年月、皆それぞれに、楽しいことばかりではなく、辛いこ
と苦しいこと、いろんなことを抱えながら人生を送ってきたわけです
が、あるひととき触れ合ったご縁がお互い大切ないい思い出としてず
っと残り、今またこうしてすぐあの頃に戻ったかのようにお付き合い
が出来ることに心から感謝した旅でした。

母も、おばちゃま方から「新幹線で1時間19分で来られるんだから、
これからはちょくちょくおいでっ」と言われていましたので、きっと
また近いうちに訪れる機会があることでしょう。

そのときはまた私も妹もお供をしたいと思っています。

次にお目にかかる日を楽しみにーーーーどうぞ皆様お元気で

本当にありがとうございました。m(_ _)m




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コメント一覧

#573 No title
すごく興味深く読ませていただきました。

お父様にまつわる様々な思い出や人々は温かなかたばかりですね。

時間が経って振り返ってからしかお父様の本当の良さは分かりにくいかもしれませんが、真の男って気がします。

でもSophieさんが「笑わない子」って言うのには大笑い!!
#575 Kumikoさん、コメントありがとうございます
人間の性格ってのも変わるものですね?!

小中を過ごした鹿児島は私の第二の故郷で
良い思い出ばかりです。
父には抑圧されてましたけど?!
幸せな子ども時代を過ごせたことに感謝しています。


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